スイスのチーズの歴史
嘘か本当かは定かではありませんが、こんな言い伝えがあります。「石器時代、猟に出かけた猟師たちが反芻動物の子どもを捕まえました。この反芻動物の子どもは、捕獲される直前に母乳を飲んでいました。そして猟師たちは偶然、この反芻動物の子どもの胃の中に白っぽいゼラチン状の塊があることを発見しました。なんと反芻動物の胃の中で、母乳が発酵し、カードチーズのような物になっていたのです」おそらくこれは私たちの祖先が初めて「チーズ」に出会った時の体験が語り継がれたものでしょう。そして、何千年も昔、チーズは間違いなく特別で贅沢な嗜好品だったのです。
新石器時代の考古学的証拠は、現在スイスが存在する地域において当時すでに牛が家畜として飼われていたことを示唆しています。したがって、畜乳を使用していた当時の人々が、極めて腐りやすい一方で重要な食品である畜乳を保存しておく方法を模索していた可能性は高いと言えます。

何世紀もの間、凝乳から作られる主な食品はカッテージチーズでした。ハードチーズの伝統は、ローマ人によってアルプス地方にもたらされました。歴史上初めて「スイスチーズ」に言及したのはローマの歴史家大プリニウス(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス:Pliny the Elder)で、それは1世紀のことでした。大プリニウスの記録には、「Caseus Helveticus(カゼウス・ヘルヴェティクス)」、すなわち「ヘルベチア人のチーズ」についての説明が記されています。ヘルベチア人とは、当時、現在のスイスに該当する領域に定住していた人々です。中世の資料の中でチーズ作りについて言及している最古の資料は、グリュイエールの前身である州に位置していたペイダンオー地方の資料で、その時代は1115年に遡ります。また、1273年に発行されたブルクドルフの「ハンドフェステ(Handfeste)」すなわち特権付与状にも、エメンタール渓谷でのチーズ作りについての言及が残されています。
中世前期まで、スイスに住む人々はほぼ100%自給自足の生活を送っていました。アルペン渓谷の中で人が住んでいたのは穀物が育つ可能性のある場所だけでした。アルプスとアルプス山脈の麓では常に酪農業が最も盛んに行われていました。牛乳が製造される場所ではどこでも、保存が必要となり、結果として牛乳はバターやジガー(ホエイチーズ)、クワルク(フレッシュチーズ)、チーズとなりました。運搬システムの効率が改善され、人々はアルプス渓谷からより離れた場所に定住できるようになりました。その結果、主食として食べられていた伝統的な「マッシュ料理」(主にキャベツや砕いた穀物など)がチーズに置き換えられるようになりました。チーズは「d’Spys」、すなわち「食品」として知られるようになりました。

スイスが実質的に国家として独立してまもない頃、チーズは主食であるだけでなく、支払い手段として現金の代わりに広く使用されていました。当時、職人や日雇い労働者はもちろん、小教区の主任司祭に対してさえ、「チーズと現金で」支払うことは、習慣となっていました。事実、チーズはスイス国外でさえも現金の代わりとして喜んで受け入れられていました。そこでアルプスの牛飼いたちは、チーズホイール(巨大な円形のチーズの塊)をかついで、アルプス山脈を越えてイタリアへ行き、スパイスやワイン、栗や米とチーズを物々交換していました。15世紀、16世紀に入ると、アルプス山脈の牛飼いたちは、渓谷の麓へ余分なチーズを売りに出かけるようになりました。この頃、権限を有する組織によって仲介取引の承認が却下され、法律により、自分で市場に出向き、自ら商品を販売することが牛飼いたちに義務付けられました。ところがチーズの取引が盛んになるにつれ、仲介業者の活動を禁止することが不可能になりました。チーズ販売業者は、アルプス山脈の牛飼いたちと消費者の架け橋となる必要不可欠な存在でした。チーズ販売業者は牛飼いたちが持っていなかったもの、すなわち「保管のためのスペース」と「資本金」、そして「マーケティングの専門知識」と「消費者ネットワーク」を持っていたのです。18世紀頃まで、チーズ販売業者は、チーズホイールの代金として、アルプス山脈の山小屋や農家からリネンやファスチャン織の織布、コーヒーやたばこを受け取っていました。
当時、スイス全土で、まったく同じひとつの基本的なハードチーズの作り方が使用されていました。地域による違いは、山の牧草地の広さや熟成過程での処理の方法が違ったことによって生じた産物でした。夏の間、牛たちが山の牧草地で過ごした時間が長ければ長いほど、できるチーズホイールは大きくなりました。ただし、現在でも一般的に使用されているハードチーズの基本的な作り方は、この当時すでに誕生していました。
- 「Sbrinz」と「Gruyère de rayon」(現在の「L’Etivaz AOP」や「Saanen-Hobelkäse」のようなチーズ)は、傷みにくく、駄獣に載せて運搬しやすいようにするため、チーズを空気が十分に循環するラックに立てて置き、2年以上乾燥、熟成されました。
- グリュイエール地方の人々は、ハードチーズを原型のまま積み重ね、平らなウォッシュタイプのグリュイエールチーズを作っていました。
- 18世紀の初め頃まで、エメンタールとグリュイエールにほとんど区別はありませんでした。このため、フランス人は、グリュイエールチーズのことを「Gruyère d’Emmental」(エメンタールのグリュイエール)と呼ぶことがありました。そしてこの紛らわしい呼称は、今でもあちこちで使用されています。
18世紀には、日持ちが良いため、ハードチーズに対する消費者の需要が著しく高まりました。当時でさえ、需要が高いほど、生産者のステータスは高くなるというのは、当たり前でした。瞬く間に、チーズづくりは謙虚な酪農家や牛飼いだけのものではなくなりました。一方で当時まだ人々は、運搬できるチーズは、アルプス山脈でしか作れないと信じていました。ところがフィリップ・エマヌエル・フォン・フェレンバーグ(Philipp Emanuel von Fellenberg)はその考えに懐疑的でした。そして1805年、ホーフヴィルの私有地でチーズを作るため実験的な酪農を始めたのです。フェレンバーグはすぐに、低地でも良質なチーズを作ることができる可能性があることを証明しました。1815年、トゥーン近くに位置するキーゼン城の主であったルドルフ・エマニュエル・フォン・エフィンジャー(Rudolf Emanuel von Effinger)はチーズ作りのための酪農場をキーゼン城の敷地内に建設しました。このエメンタール地方の村初のチーズ酪農場は、共同組合として管理されていました。当初スイスは、渓谷に作られた新たな酪農場で生産されたエメンタールチーズを鼻であしらっていましたが、スイス全土のチーズ生産は徐々に高山から渓谷やスイス高原へと変遷していきました。例えば1832年以降フリブール地方では、かつてないほど渓谷の酪農場が次々に作られました。そして瞬く間に、アルプス山脈のチーズ酪農家は、優位な立場を失いました。アルプス山脈の酪農家の中には、数多く誕生した新たな村のチーズ酪農場でチーズ職人になった者もいました。低地の牧草地を買い占め、山に定住し、農場経営者になった者もいました。海外、特に東欧や北米に移住し、チーズのための酪農場を建設し、主にエメンタールチーズ作りを始めた者もいました。その結果、19世紀末までに、スイス産の大きな穴が特徴のチーズの名称として「エメンタール」の名を守ることはもはや不可能な状態となりました。
1834年には、チーズの輸出量がベルン州だけで22,882ハンドレッドウェイトにもなりました。そしてこれが、「チーズの黄金時代」、すなわちカリフォルニア・ゴールドラッシュのように、多くの農場経営者と起業家がチーズの虜になった時代の幕開けとなりました。
大胆かつ見境のない投機により、チーズ業界に大金が投資されることになりました。生産される膨大な量のスイスチーズにスイス国内および海外で買い手が付いていましたが、1875年以降、マーケティングの難しさや価格変動により、業界自体が数え切れないほどの農場経営者やチーズ職人、そして輸出業者を破綻させていると感じ始めました。その後、業界が落ち込む中で、チーズ業界は我に返り、「品質」こそが何よりも重要であるということに気付いたのです。牛乳を供給する農家には、飼料や牛舎に関する詳細な知識が求められました。新設された酪農学校は、チーズ職人にとってチーズの品質を向上する機会を得る場となりました。また、取引業者は、輸出向けに全脂肪チーズを保存し、バターの高まる需要を受け豊富に供給されていた低脂肪チーズをスイス国内で販売するという違法行為を止めました。当時、より高価で質の高いチーズが海外に輸出されていることを裏付ける十分すぎるほどの理由をスイスの人々は認識していました。今では、極めて高い品質のスイス産チーズが世界中どこででも手に入り、世界中の人がその味を楽しむことができます。